昭和41年02月20日 朝の御理解



 もう随分前のことでございましたが、秋永先生ところのお婆ちゃんが言われた事があります。先生あのうちの文男はあげんばっとしとりますけど、本当に細かいところに気がつかんだまっとるごたあるけれども、ちょっとしたことに心を使ってくれます。例えば黙ってから出かけたりいたしておりますと、ちょっとその羽織の襟が折れてないと、だまってしてくれる。こつかいでも黙って袂に入れてくれる。もうちょっとした事がそれでもまあうれしい。」と言うておられましたがね。
 あれはあの不思議なものです。とって付けたようにしたんではです、些細なことでも、何かいやな感じがいたしますですよね。ご機嫌取りにされているような気がする。けれども例えば秋永のお祖母さんが2番目の息子になりますが、その息子のあんなに黙った人だけどなかなかその、ちょいとしたことに心を使ってくれると。そのちょっとしたことだけが嬉しいじゃあなくて日頃文男さんが親の事を一生懸命心の中に思っておるということが、時たま些細なことに現れる、それが通うのですね。私はそう思うのです。 
 昨日5時も過ぎていたでしょうか、現場の御用を頂かれた人達が皆帰って見えてから私は知りませんでしたがその久富繁雄さんも昨日は当番だったらしいです、それでその向こうがわ直接こう今土居のほうから近道で合楽周りでやってくるんですからここにに寄らんでいっておられるら「アラッ」あんたもじゃったとですかと、そして楽室入ってからですもん楽室入ってからですもん楽室入ってから、あらちいよんなさる。
 どうしたつですかあちいうたら「今日はあそこに椿を一枝もろうてきておりましたつを、ご造営のあそこんこ処の水の出よるところに浸けたまま忘れてきましたていう」もう私はそれだけでうれしんです、それが取ってつけたようではないからです、忘れておられてもそれで嬉しいです、何時も私のことを心にかけてくださる、いつも控えの茶花だけは自分がと思っとっておられるという事が、実際はいただいてもおらなければ見てもいないんだけど、それでも何とはなしに私に通うものを感じる、些細な事です。
 私は信心は常平生普段の信心が大事とこう言はれています。参っておる時だけ神様のことを思うておるとかと言うのではなくて常日頃の信心がですいつも神様のことを思いまたは教えにいつが取り組んでいる、普段のそういう信心があってです、なにかたまたま些細な事がです、心を捕らえるという様な事になるのじゃないでしょうか。思いつきといったものではない。
 普段の信心が何かの時に現れる、それが特に光ってみえるのではないでしょうか。神様の場合でもそうだ。そのいずれの信心がです、それは毎日お参りしておるからと言うて、という事とは違います。あの人は日頃黙ってから、ものも言いません。親にこえらしいこともそういいませんのですけれども時々そのそういういう事がです親の心に一つの感動を呼んでおるこの人は心から親を思うてくれている。
 もう私げにはこの人が一番で御座いますというてその秋永先生ところのお婆ちゃんが喜ばれるようなものを、やはり常日頃に文男さんが親のことを思い続けておるということだと私は思います。又この人は普通のひとです人です、繁雄さんそれとも同じことです、私どもが神様の事をですいつも思い続けておる、それが何かの形に現れるときです。それが人の心を捉えるだけでなくそ、神様の心を捉える。
 そこにいよいよ密接な交流というか、愈々この人は間違いの無い人だといったような「この氏子は」と、神様がご信用くださる元ができると思う。昨日もう十時やんがて11時だったでしょうか、福岡からある信者さんがお参りをしてまいりました、もうお参りをしてみえられたと言うよりも。この人は長い間この、テープレコーダーのテープをですお供えし続けておる方なんです。
 私が朝に晩に伝えさして頂いているそれが記録として、久保山先生が朝のご祈念だけは、長年ここ15年間のものが書き溜められています。沢山のことです。同時にまたその方がお供えなさるこのテープがですここではもうだから解きません。どうせ二つ致します。一つは貸し出し用、もう一つは保管用、そしてからもう沢山溜められています。ですからね、この前の月例祭にその方がお参りした時にです。
 あらもうこれは「明日一日しか有りませんなあ。」というてまあ帰っておられたそうですけれども、よもや夕べまたそれを持って見えるとは思わなかった。ところが、もう福岡からです、もし持って見えなかったら、今朝の御理解はテープに録っておくことはできませんでした。あれやらこれやら、済まさして頂きよったらこんなにおそなった、それでもやっぱり福岡から、わざわざそのテープのお供えをもってきておられます。
 例えばその、それは今日一日無いということなんかは、それはささいなことかも知れません、けどもそのささいなこと、例えば一日でも一晩でもとこう思うその心が私は神様の心をとらえるのじやあないか。私は真心ということを申しますのは、そういう常日頃、たとえばそのことに心をかけ続けておるそれがささいな形に、真心というのは。例えて申しますならばです、昨日熊本からお参りがございました。それに神様のご都合というのは恐れ入ってしまうですね。
 というのは弘子さんが先に参って来とりました。村上さんと言う人がこの人はなかなかの霊能者です、弘子さんが学院にまいりますけども、その後は村上さんが承るだろうとこう思いますが別にその別々にきているんですね。それで何時頃行くから椛目で待ち合わせようと云うて出てきておったです。昨日たまたま歌舞伎がテレビでやっておりました。私はだいたいが好きですし、年寄りも好きですし、今テレビでぜんぜん御造営が進むまではというて、家族子供たちに至るまで見ませんのですけど。
 歌舞伎がのる時だけは、それを見せてもらうんです。昨日も私それを見せてもらっておりました。そしたら若先生が「弘子さんが来ておりますよ」というてから、それで「村上さんが見えるそうですから」と云うてそのいうて来ておる、それから私芝居を見終わらせて頂いてから「まだまだ村上さん見えんとかね」「まだ見えません」「いま電話が掛って来ましたちなんち電話がかかったの久留米に着いた途端にお腹がせきだしてから、ちよっとあそこで休んどりなさるそうです。
 何処か友達なんかのうちによって、そうですからちよっとおくれるけれどもというて電話が掛かってきた。ああそげなこっちゃったといううちに帰ってみえました、ここにみえました、それであそこでまあちょうど、ああたもう久留米に降りたとたんに腹がセキ出したもんぢゃけ友達のうちに行ってからしばらく休ませていただい取りました、遅なってすみませんというてその言われて私がはあそれはすみませんでした。
「それはわたしのためにまるっきり腹が痛かったっよ」「なぁしてですか」私が今日は好きな芝居を見してもらいよった、あんたが来たらやっぱほうたからかしておく訳にはいかんけ、下におりてこにゃいかん。私が芝居を見終わっておりてきた、あんたが着いた、ね。ですからもう本当に、それは些細のことのようだけれどもです、そういう些細なことの中にも、神様のお働きがあっておるということ。それはちょうど、今日のご理解をひっくり返して思うて見て下さい。
 分るでしょうね、例えばこれはもう本当に、私は相済まないことですけれども、私の立ったためにです、私が好きな芝居を見ておるから、ちょっと暫くでも、ゆっくり見せてやろうという、神様のその働きがささやかなことではあっても、それを有り難いと思はなければおられません。神様こんなにして、私共の御守護を下さっておるんだということ。一事が万事にそうだということ。
 ですから、今朝皆さん方に申しております、ささいな事の中にも、神様の前に例えばささいなことでも、それが真心になって現われてくる時です、それを神様が受けておってくださる印がです、私の場合そういうような、お返しを下さっていることが分るでしょう。ほんとに神様が、こういう細かいことでも、心を使って下さることが有り難い。それはいつもかつもです。
 神様が私のことを思い続けておって下さるということなん。それを繰り返すと、神様のことをいつも、思い続けておるのであり、また私のいうことすることささいなことを神様がめでたもうおられると言う様なものを、そう言う様な働きの中から感じるでしょう。どうぞ一つ皆さんの日常の生活の上にですよ、どのようなささいな事でも、神様の働きを生き生きとして感じれる、本当に神様はこのような小さい、このようなことにでも、働きを頂いているんだ。
 それがはつきり、これで分からせて貰える様なおかげ、そこを頂くから私は日々が「有難い事じゃなあ、勿体無い事じゃなあという生活ができるのです。そのためにも、いつも神様のことを思い続ける、しかもその思い続けていることが、些細なことにでも現われる時に、そのことを受け下さるのです。昨日熊本の人達がきてから、私にいろいろなことをお伺いしてるのです。つぎつぎとご信者さんがお参りになる。
 中に吉田さんというて、まぁ大変篤農の方ですが、息子さんがもう大変難儀な病気でおかげを頂いた。それこそもう不思議なぐらい、いわゆるノイローゼですね、どこの精神病院に行きましてもできなかったのが、丁度去年の十月の秋の大祭にお参りをさして頂いてお話を頂きよる間に、おかげ頂いたという人です。それ以来おかげ頂いてから、4、5日前もお父さんが見えられましてから。
 このごろ、椛目に行った時にお願いしておった事が、こう言う様なおかげになった。それがお百姓さんですが、50万ばっかりおかげを頂いた。本当にお礼を申し上げて下さいち、いうてからその言ば御礼申上げよつたげな、そしたら10万円以上、椛目にお供えせよと頂いた。だからこげなこつは中々言えませんが、どげん風に言うたらよかですか」と私にいうんです「そうなあそげんな事は言わんがよかよと私は申しました。
 だから御理解を頂いたら、御理解を伝えることはいいけれども、実際そのう50万儲かったというたら、途端に十万以上お供えしないといけない、十万以上というところがなかなかです20万でも十万以上、30万でも十万以上、そこに私はこのおかげを頂かせてもらう、いろんな何と申しましょうかね、次々と限りなく、おかげを受けておるということ、無尽蔵におかげを頂いて行くということの為にはです。
 やはり無尽蔵に例えば美味しく頂く為に、無尽蔵にやはり出していかなければならないと言う事の理を、申しましたけれども「しかしそう言う様な事は、あんまり自分の心の中に、これはもうこれでなければ助からんという時には、この額だけれど本人がそこに気付くように、真心で出来るように、お繰り合わせを頂いたらいい」と話した事でした。そしてお道の信心はどこまでも、教祖の神様はそう言う事には、全然触れておられない。「氏子が真から用いよるのは、神の比礼じゃがと氏子を痛めては、神が喜ばん。」
 と云っておられるぐらいである、だから椛目の場合でも、あれだけの例えばご造営が出来ていきよる、これっは大変なことだけれども、皆さんも一生懸命なんだけれども、私は損してからまでも、ご造営があったんでは出来ん。私がある方達に、一生懸命に御用頂いておられる人たちに云よります。あなた方が商売なら商売、事業なら事業一生懸命、おかげを頂いておる。一生懸命の思いを持っておる。
 おかげ下さら何はずはなか。だから「御造営が済むまでは、儲け出そうとか、儲かろうとは思いなさんな。」と私は申しました。そしてお店の上に、事業の上に特別なお働きを、頂いておるというのは、ご造営の為に使わしてもらいなさい。御造営が済むまでは儲けだそうと思いなさんな。そういう一生懸命な人達の上に、椛目では特別な働きになっている事だけは、事実です。
 だからその人達はもうとにかく御造営が済むまではいわば百万円の財産を持っていても百五十万円にしようとは思うていません。御造営がすんでから、いわばその御造営のことによって一徳受けるということ、だから損にはなりますまいが。ただ自分のお店ならお店事業なら事業と言う上に神様の御用につこうて下さる分が出来て行くだけの事、そこんところをお供えするだけのこと。痛くもなければかいくもない。御用さして頂いているのがありがたいというだけのこと
 。自分の財産までもうちぶってから家をたてたって、御造営ができたと言う様な事ではでけんち、椛目の場合に限ってはと私はそう申しています。そういう例えば、たとえば神様のことにその思いを思い続けておる人達がです、例えばあれは片島せんという先生ですね、大変お徳を受けられた女の先生ですが、に、神様が確かに教えて下さっている、お知らせの中に「庭の散りば庭の落ち葉でも、氏子が真をもってお供えすれば、神がそれはお供えとして受けると仰しやったそうです。」
 必ずお賽銭は10円じゃあないといかんという事はない。必ずお初穂は百円でなからなならんことはない、今日は真に申しわけないけれども、お初穂袋に名前を書いて、中身は少しもはいっとらん、はいっとらんけれども、お初穂袋その物が、お供えだとしてお供えされる人もありますからね。常日頃いつもかつもそれではいけません。いつもかつも庭の散りばではいけませんいつもかつも空のお初穂袋ではいけません。
 常日頃そのことを思い続けておる人がです、そのこと例えば庭の散り葉でも庭の小石をきれいに洗って、お賽銭箱に奉っておかげを受けた人もあります。例えばだから、私が思いますのは、今日皆さんに分かって頂きたいのは、常日頃のそういうものが出来ておってです、そういう思いがいつもあり続けておって、でそして偶々些細な事に現われてくる、それがおかげなのだということ。お金がなからにゃ参られんという、神様でもなからなければ、お供えをしなければ、おかげを頂けない神様でもない。
 些細なささやかな事であっても、神様がそれを、私共の隣に叔父がおりました時まだ善導寺の初代がおられました時、近所からみごとな大根をいただいた。こりやもうあんまり素晴らしい大根、品評会に出しても良いぐらいの、立派な大根じゃった。だから「早よう善導寺にお供えしてくれんの。」というてから伯母が申しますからその、叔父はすぐそれを、善導寺に持って行ってお供えをした。
 それを先生が、お三方のうえに、お供えなさったところがです「田中といいますが、田中さん、今日のこの大根には真心がこもっておるじゃろう、神様が大きな生鯛で、御神夢を見せてくださった。」と仰ったそうです。その物は大根じゃけれども、神様が受けてくださるのは、おおきな生き鯛を、お供えしたように喜んで、受け取って下さると言う事なんです。「そうでございましょう、今日んとはもういっちょん不浄どんありまっせん、あまりにも美しかっばと頂きましたので。、
 早よう善導寺にもっていって、お供えしてこい」というのが、そうじゃったろのとにかく、今日のお供えは、こげんとが真心じゃというて、教えられたということでございます。それがなら、そん時だけじゃなくて常日頃です。どうか神様に、神様にと思うておる思いがそう言う時にあらわれてくるから、それを神様が受けて下さるのですよね。どうぞひとつ私は、とって着けたよう思いつき、日頃はそうでもないのに、取って着けたよう、例えば些細なことなされたかって、却って気持ちが悪か。
 あれがえらいこうめしとるがなんか、あれはこつちんその無心のひとつもするとだん、なかじゃろうかと思うたら気色が悪か、そんなもんでしょうが。機嫌とりではいかん、常日頃普段に出来ておらねばならぬ。それが些細なこととして、現わされてくるときにそれがほんとに、秋永先生ところのおばあちゃんじゃないけれど、本当にあれはあげんは黙っているけれども細かいところに気をつかってくれます。」
 というて親の心に通って行くように、常日頃ここの茶のことは、心に掛けておられるから、畦道からとってこられるその花でも、一枝椿の花でも、それは途中で忘れてきとられてもあら、それだけで私は嬉しいとこう思うのです。ですから、神様に喜んで頂くとか、自分の思いが通うとかいうのは、そう言う様なものだ。だから些細なことだけで通じるのでなくて、常日頃のその思いそのものが、私は大事だということね。
   どうぞ。